うさぎの時代庵

時代小説、時代劇の作品感想を書いています。司馬遼太郎、海音寺潮五郎作品が大好き。新選組、幕末物が大好き。

「頼朝の死を廻って その虚実の世界」 永井路子「続悪霊列伝」より

永井路子さんの「続悪霊列伝」の中の一遍。

源頼朝の死は謎が多く、どう死んだかについての確実な記録がないのです。

永井さんによれば頼朝の死の原因を推察できる材料は幾つかあるということで、当時の公家の日記や藤原定家の日記、明月記には「飲水の重病」(糖尿病のこと)で死んだと書かれている。

ところが「吾妻鏡」には相模原の橋供養の帰りに落馬した事が原因で死んだと書かれている。でもこれは後から振り返って書かれた部分で、頼朝の死の当時の記録はないのです。

吾妻鏡」はところどころ抜け落ちていて、頼朝の死の前後の部分が脱落しているのです。

吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式見解といえるものなので、それなのに肝心の頼朝の死の部分が抜け落ちているという点が、いろいろな想像を起こさせることになるのです。

もちろん長い年月の間に自然に紛失したとも考えられますが、頼朝好きだった徳川家康が「頼朝の傷になるような記載は構成に伝えない方がよい」ということで隠してしまったという伝説もあるのです。

 

死亡時53歳になっていたとはいえ、戦地経験の豊富な源頼朝が落馬するか!?という疑念から、頼朝の死についてあれこれと想像がめぐらされるわけです。

永井さんが頼朝の死を「悪霊列伝」の中で取り上げたのは、「保暦間記」に相模原の橋供養の帰りに、悪霊にあった頼朝がその後病みつき、間もなく死んだと書かれているからです。悪霊とは源義経安徳天皇であったと。

他にも女通いしていた頼朝に怒って、嫉妬に狂った北条政子が殺してしまったという伝説もあるそうですが、これはいろいろな事情から考えてありえないと永井さんは否定しています。

それから真山青果という劇作家が、女通いをしていた頼朝がその女の恋人に闇討ちされてしまったとした「頼朝の死」という芝居を書いて、これが大当たりしたので、この説が広く世に知られて信じられるようになったそうです。

 

ただ、頼朝の死亡当時、政子も、頼家も、誰もそれを悪霊の仕業だなどと思っていなかったということです。そういう記述は当時の記載には一切ない。

悪霊が登場して頼朝は悪霊に取り殺されたのだとした「保暦間記」は、頼朝死亡時にリアルタイムで書かれたものではなく、誰が書いたのかもはっきりしていないのですが、現生の悪行には必ず報いがあるという考えが貫かれていて、源頼朝は悪行を行ったと認識されていたという点が注目なのです。

平家一族や源氏の兄弟や親族、多くの部下たちを死に追いやった頼朝は悪霊に取り殺されても当然なのだという考えが存在したというわけです。

 

「悪霊列伝」というタイトルとはいえ、永井さんは悪霊の存在は信じていませんから、悪霊を生み出した側の精神状態こそ注目だと書いていて、鎌倉時代源頼朝は悪霊に祟られて死んでもそうだろうなと思わせる存在だったというわけです。

悪霊を信じない永井さんの立場からいえば、頼朝が相模原の橋供養に行った時期が旧暦12月というとても寒い時期だったということに注目しています。旧暦12月は今の1月~2月で、一年の中で一番寒い時期で、寒風にさらされた頼朝が高血圧などの急性疾患で落馬し、その後亡くなったと考える方が科学的であると永井さんは書いています。

これも推測の域を出ないので、結局のところ、源頼朝の死因についてははっきりしないままです。本当に落馬が原因なのですようか?それとも糖尿病?あるいは複合要因?

本当のところはどうなのでしょうね。

 

永井さんの「悪霊列伝」「続悪霊列伝」は悪霊になったその人本人よりも、悪霊に仕立て上げた人々の側にこそ「悪霊になってもらう」理由があったとしていて、とても面白い作品になっています。